ウシャブティは立った人物の形をした小像で、通常細長い布で巻かれており(ミイラ)、道具や付属物を持っていることもある。小像に書かれた文にはその持ち主の名前と称号が記されており、小像の役割(別の世界、死んだ場所で農作業をすること)を特定する死者の書 第6章により補われている。 最初の例は中期王朝(紀元前1991年-1786年、第12王朝)に現れた。これらはオシリスのミイラをモデルにして作られている。埋葬用召使いにはいくつかのアイデアが組み合わされている。階層的組織によって灌漑が管理されている、農業を基盤とする社会のイメージ。死者が生きられるようにするための実際的あるいは象徴的な食料提供。 埋葬用召使いの歴史の概略 中期王朝。この時代のものはミイラの形をしており、王家の式文または死者の書の初版の 第6章が記されている。後に、特に第17王朝期(紀元前1630年‐1555年頃)には荒削りに切られた「棒」になっている。これはテーベ(上エジプト)の共同墓地に収められた。 新王朝(第18王朝、紀元前1555年‐1305年)。この時代にもまだミイラであり、道具とお守りを持ち、死者の書の第6章が刻まれている。外観は多様になり、棺と小さな道具類が与えられている。これらは聖地(アビュドス、ギーザ…)に多く収められた。ラムセスの時代(第19および第20王朝、紀元前1305年-1080年頃)のものは鍬を持っている。 その後の時代(紀元前1080年‐946年頃、第21王朝)には、型を使って大量に作られた(死者一人につき401体)。彼の仕事は「交渉の余地」があり、これはウシェブティとなった。デイル・エル・バハリ(上エジプト)とタニス(下エジプト)の王達の墓に大量に埋葬された。次に、最初の姿を取り戻した後(紀元前740年‐713年、第25王朝)、サイス期(紀元前664年‐525年)に最終的な形をとるようになった:台座の上に立ち、支柱にもたれかかるミイラ。あごひげがあり、笑っている。この外観はファラオの時代(クレオパトラ7世、紀元前51年‐紀元前30年)の終わりまで保たれた。